2024.3.11にやること

東日本大震災の2年前、

私は10年過ごした大好きな仙台を泣く泣く離れ、

神戸に引っ越してきました。 

 

仙台に住んでいたころ、

「宮城県沖地震が数年以内に来る確率は98パーセント」とよく耳にしました。

宮城県としては、過去のデータから、危険が迫っていることを周知しようとしていたのです。

実際に仙台に住んでいる間、

震度5,6を何度も経験しました。

「近いうちに大きい地震が来るね」と話したことを覚えています。

大きな地震が近いうちに来ると、みんな知っていた。

ですから、あの日私は、

「東北に震度7」という速報を見ても、

「ついに来たんだ」と落ち着いていました。

しかし時間が経つにつれて、

予想を遥かに上回る現状に心が凍り付きました。

当時働いていた学校の職員室の大きなテレビで

他の先生たちはどこか他人事のように眺め、

私もそれを眺めていました。

対岸の火事のように。

 

延々と流れてくる映像、

アナウンサーの絶叫、

よく知っている仙台空港の変わり果てた映像を見たとき、

先輩たちとドライブで行った「荒浜」の惨状を耳にしたとき。

そして友人、教え子のことを考えたとき。

私は考えることをやめたくなりましたが、

仙台空港の惨状を見たとき居てもたってもいられず、同僚だった友人に電話をしました。

あの混乱の中、奇跡的に繋がりました。

津波のことを伝え、すぐ逃げるように叫びました。

 

数年後、私は石巻の大川小学校跡に行きました。

緑色の新北上大橋を過ぎ、眼下に広がる光景を見たとき、

その痛々しい光景に絶句し、すぐに「ああ…」と声が漏れました。

何もない更地の中に、小学校がありました。

それは「忘れられてなるものか」と時間の流れに必死に逆らうような痛々しい姿。

降り立つと、

巨大なコンクリートもへし折る津波の破壊力を目の当たりにしました。

しかし、最も忘れられないのは、

在校生たちが地震発生後、数十分も待機していたグラウンドと

その真後ろ、子どもの足で数十歩の距離にあった山です。

小学一年生でも登れたであろう斜面の山。

子どもたちが慣れ親しんでいたであろう山。

その山の斜面に「津波到達地点」の印が立ててありました。

たった数十歩で登れた安全地帯が目の前にあったのに。

なぜか子どもたちと先生たちはわざわざ津波に向かって逃げたのです。

 

人は見たことがないもの、聞いたことがないもの、経験したことがないものに対して

考えることが難しい。

人は自分に関係のないことを、自分事にすることは難しい。

東日本大震災を通して、痛感したことです。

  

でも今日をただ悲しむ日、

後悔するだけの日にはしてはいけないと思います。

悲しみを掘り返すのも違う。

私は備えを強化する日にしています。

私はあれから引っ越しを数回して、

海から離れた高台に住まいを定め、

有事の際は在宅避難できるよう、準備をしてきました。

一か月分の食糧と水、備品

数百回分のトイレ、

🐰二匹と、🐈一匹の一か月分の食事と備品。

最近の地震の頻発を受けて、車載用の防災グッズも搭載しました。

 

食糧は無理なく備えることを目指し、

我が家にあったローリングストックを追求した結果、

あれこれ買わず6点に絞り込みました。

米、ふりかけ、汁物、缶詰、プロテイン、お菓子です。

この三つはCostcoで購入しました。

大容量で便利です。 

特に「チョコレート効果」は、初めて見る大きさにたじろぎました(笑)

どうか、出来るときに備えを確認してください。

自分と自分の大事な存在の命を守れるのは自分なのですから。