日本国語力育成会では、国語力を以下のように定義しています。

国語力とは、表現力、読む力、想像力、俯瞰力、探求力の5つが融合した力である。

1.表現力

正しい文法と適切な言葉を使って自分の思いなどを表現し、周囲と共有することができる

2.読む力

説明文、物語文、随筆文、詩など、どのような種類の文章でも自在に読み進めることができ、趣旨を読み取ることができる

3.想像力

行間や状況から、言語化されていない思いや事態を想像・予想することができる

4.俯瞰力

一度で文章や相手の話の要点・概要を把握することができる

5.探求力

文章から積極的に情報を取り入れ、知識・理解を深め、自らの価値観を涵養していくことができる

 

代表の思い

日本国語力育成会、代表の田添マチ子です。   国語教育は精神の涵養をもたらし、 真の幸福な人生の実現に多大な影響を持ちます。 よって、国語は誰もが、最優先で学ばな…

国語力の育成は大樹を育てることと同じ

国語力を身に付ける過程は一本の木を育てるプロセスと似ています。

想像してみてください。

背丈は高いけれど、幹が細く、ひょろひょろとした木。

強い風が吹いたら大きく揺れます。根元からポッキリ折れてしまうこともあります。

一方、

背丈はそれほど高くないけれど、幹がどっしりと太く、大地にしっかり根を張っている木。

強風が吹いても根を張っているからビクともしません。

さらに伸ばした枝葉は多くの生き物を育みます。

ただし、ここまで育てるには時間も労力もかかります。

国語力の育成とは、この大樹のような人間を育成することなのです。

ちょっとの困難や苦労があってもめげない。

自分自身と周りにいる人を幸せにすることができる。

自立した人。

このような人が増えることは日本という国の真の発展につながると思いませんか?

国語力は必要?

国語力とは何か?

代表の田添は約15年前、国語教師になった日から追究を始めました。

なぜ国語を学ばないといけないのか?

国語を学ぶことで何が得られるのか?

答えにたどり着くまでに、それほど時間はかかりませんでした。

まず、確信したことがあります。

それは、国語力は一人の人間が幸福な人生を拓くために必要なものだ、ということでした。

偏差値ですべてを計り、受験だけにしか使えない読解ではなく、

一人の人間が幸福な人生を築くために必要な国語。

それを国語力としました。

これで国語力が身に付くのか?

私は中学受験塾や進学校で国語教師をしていましたが、

そのような所では模試の偏差値を上げることが最優先です。

それ以外は無価値なもの、と切り捨てられます。

私はだんだん、自分がしていることに疑問を持つようになりました。

「これは、国語教育なの?」

「私は、ちゃんと子供たちを育てているだろうか?」と。

読解問題は早く解ける、

でも長文の要旨は理解できていない、

何も感想も持たない。

記述問題を記入できても、

支離滅裂な内容を平気で書いて

主語述語の関係もめちゃくちゃ、文法もおかしい、

読めない字で書かれている。

自分が何をしているのか分からなず、言われるまま文章を読んでいる、

普通の口頭での簡単なやり取りも満足にできない。

自分の言いたいことを単語でしか伝えられない。

それから、

国語が訳のわからないものになって、大嫌いになっている子が多いということ。

それでも偏差値が高ければこれらのことは問題なしになってしまう現実。

偏差値至上主義の教育が日本の国語力を衰退させていると感じます。

国語力は足し算ではない

国語力の育成は足し算のように単純なものではありません。

時間と手間が必要です。

しかし、近年の世界全体におけるスピード重視の傾向が子どもたちを国語から遠ざけています。

長文読解は、文字通り長い文章を読まなければならないので

ラインやSNSなどのスピーディーで短文のやり取りに慣れた子にとっては苦痛なのです。

また幼いころから「早くしなさい」「さっさとしなさい」「要領よくしなさい」などと

高速で、効率よくこなすことを求める大人の責任でもあります。

じっくり目の前のことに取り組む時間が確保されていない子は

常にスピードに追われて何をしているのか分からなくなります。

手っ取り早く、良いものを手にしようとするあまり、

長文が苦痛で面倒なものになってしまうのです。

文章と向き合う姿勢が整わないまま、国語が苦手になる傾向にあります。