子どもに物語文、詩の読解を絶対にさせるべき理由
子どもの国語力の育成は
生まれた時から始まっていると思います。
ずばり、普段から接する大人の言葉で決まります。
私は赤ちゃんだからって
幼児語、赤ちゃん言葉を使う必要はないと思うのです。
長い言葉は理解しにくいですが、
慣れていれば苦になりません。
「わんわん」じゃなくて「犬」
「にゃんにゃん」じゃなくて「猫」
「じいじ」じゃなくて「おじいちゃん」
「ママ」「パパ」じゃなくて「お母さん」「お父さん」
短い言葉に慣れて、徐々に長くしていくのも悪くないかもしれませんが、
最初から長い言葉に慣れて置いたら、それが当たり前になります。
むしろ、短い、簡単な言葉から長い言葉に変えていくと
脳内で言い換えしなくてはいけなくなり、
言語発達に混乱を招く可能性があります。
それに長い言葉は脳の発達にも好影響です。
最初から単語は普通に使えばいいのではないでしょうか。
主語述語が明確になっていないしゃべり方をする大人も多いです。
間違えた日本語なんて溢れかえっています。
国語力を育てたいなら
子どもが目にするメディアは
親が厳選することと、
親も普段から使う言葉に気を付けることです。
小学生になったら、
ある程度言葉は理解できているので
何でもかんでも
おとなが子どもの気持ちを
何でもくみ取って、先回りして、子どもの代わりに代弁すると
国語力の発達の妨げになります。
子どもが自分で言葉を紡ぐ行動を邪魔していることになるのです。
子どもの頃に拙いながらも自分で自分の気持ちを言葉にしてみること。
もちろん子どもですからまだ国語力は発展途上にあります。
伸び盛りです。
自分の気持ちをいつでも明確に表現できるとは限りませんから、
大人が一緒に考えることは必須です。
子どもが何と表現したらいいのか分からなくて、
「こういう気持ちは、なんて言ったらいいのか分からないなあ」という時は、
おとなが一緒に
「あーでもない、こーでもない」
「もしかして、〇〇〇かな?」「ちがう~」
直ぐに答えの出ないプロセスを共有すればいいのです。
「それは、〇〇〇という気持ちだよ」と教えることも大事です。
こういう時こそ、親の頑張りどころですよ!
国語力が育つ大事なプロセスです。
でも、四六時中、親が一緒にいられるとは限りませんよね。
だから、長文読解です。
特に物語文や詩の読解は気持ちの種類を知る学習であり、
思いやりの気持ちを学ぶ機会なのです。
問題を解くためだけに長文読解をしていると
この大事なプロセスが経験できません。
登場人物の状況を読み取り、
その状況下で抱いた気持ちの名前を知ること。
こういう時に抱くこの気持ちの名前はこれか!と知る。
国語は情操教育の一翼を担っているのです。
気持ちの名前を知らないと、
得体の知れない何かが心の中をさまよい、落ち着かなくなります。
でも名前がつくと、落ち着きます。
気持ちの名前を知らないと
自分の気持ちを自分で表現できなくなり、
いつも受身で待つことになり、
誰かがくみ取ってもらうことを待つようになり、
一人ぼっちになります。
自分の気持ちを整理できる子は
自分の軸がしっかりしています。
何か問題が起こっても
自分がイヤなことを嫌だと自覚できますから、
周囲に助けを求めることにつながり、
深刻ないじめのような事態を回避する可能性が上がります。
最近の子どもの凄惨ないじめの過程を見ていると
言葉のやり取りの未熟さが目につきます。
そこで誤解が発生し、いじめに発展している事例もあります。
子どもたちの国語力の低下が
凄惨ないじめに拍車をかけているような気もします。
国の舵取りをする重要な役割を担っているはずの日本の政治家を見ていても思うのですが、
本当に大人も国語力がない。稚拙。未熟。
政治の勉強をしていないような人間でも政治家になれる国ですからね。
何で日本全体の国語力が落ちているのでしょうかね~?
日本、大丈夫かなあ~~~
子どもの国語力を上げたかったら
塾に入れてたくさん問題を解かせるのではなく、
大人もいっしょに頑張る必要があります。
子どもと一緒に国語力を磨きましょう!!
おわり