国語力がないとバカッターになるかも!?お寿司屋さんのバカッターたちから見えること
国語に悩める皆さん、こんにちは。
日本国語力育成会です。
朝のテレビは天気予報の確認程度に見ます。
あとは消音にしているか、スイッチを切っています。
朝の気持ちいい時間帯にテレビの音声は耳障りですし、
ワイドショー系は朝のいい気分に水を差す内容ばかりなので。
定期的に耳に入るのは、SNSを使った愚かなふるまい。
たとえば、“バカッター”など。
最近、増えているそうですね。
非常識な言動を動画に撮影し、SNSに掲載し、注目(批判)を集めるという炎上商法。
以前、お寿司屋さんのアルバイトがおかしな動画を投稿したとニュースになっていました。
こういう人間のことは世間では“バカッター”というらしいですね。
そのネーミングセンスにも疑問ですが、それは置いておいて。
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国語教師が見出したバカッターの存在理由
結果が分かっていても批判の的になることを拡散したい動機は何なのでしょうか。
批判=注目
と捉えてしまえる異常な感性と価値観が形成された経緯は何なのか…(゜_゜)
と、いろいろ考えてしまいました。
そしてすぐにある結論にたどり着きました。
あの問題行為は
自分の存在意義・価値を確認したいがための行為だと感じます。
それは誰もが抱く欲求です。
何も問題はありません。
でも方法が間違っている。
考える力が身についていない子が行きつくところ
自分の存在意義・価値を確認したいなら、
自分や自分の周りの人が幸せになる方法で考えればいいはずですが、
考えるための道具となる言葉、価値観が育っていない。
だからどうしたらいいのか分からない、
いえ、そもそも考えることすらできない。
でも手っ取り早く結果だけすぐに欲しい。分かりやすい結果が。
考える方法も分からない、
時間をかけて一つの問題に向き合うことも出来ない。
だから結果がイメージできない。
世間ではよく理解されていませんが、
「理解する」とは字面を覚えることではなく、
その内容をありありとイメージできることです。
言葉、価値観、イメージ力、これらは全部、国語教育が関わっていることです。
バカッターの出現はこれまでの国語教育の成果
お分かりでしょうか。
偏差値を上げることや、その技術、点数ばかりに血眼になっていると、
不幸な子供をどんどんつくっていくことになるということが。
バカッターは愚かですが、
間違った教育の成果ともいえます。
バカッターは誰かと繋がる方法が分からないのです。
もしかしたら、バカッターな行動をしている人たちは
自分の行動の愚かさすら理解できないのかもしれませんが…。
「批判でも何でもいいから自分のことを見て欲しい」という悲痛さ。
批判を注目、と捉えてしまうに至るには挫折があったのかもしれません。
そんな可哀そうな方法ではなくても
誰かと繋がれる方法はあるのに…
国語は、誰かと繋がれる力を育む科目でもあるのです。
言葉、価値観、イメージ力を国語教育が担うのです。
それは偏差値だけでは測れません。
私はこれに気が付いて、学校を離れたともいえます。
孤独の人が増えてきたことの現れ
バカッターの人たちは底抜けに明るい風に装っていますが、
彼らの笑い声は心底楽しんでいるように見えませんし、
空虚な、むなしい笑い声に聞こえます。
あそこまでして注目を集めたいのは、孤独感も大きいからではないでしょうか。
物質的に豊かになっても心は真逆な人が増えている。
分不相応なブランド物で身を固めても、
高級ホテルの贅沢ランチをしても
心の空洞は埋められませんし、
そういう人に限っていつも誰かの許可を求めて彷徨っている。
言動が幼い人が多いような。
自分と向き合うことすら自力で出来ない。
孤独が埋まった気になっているだけかも。
埋める方法が分からない孤独は、絶望に近いと思います。
そんな人が増え続けている日本はどうなることやら…と感じた朝のニュースでした。
やっぱりたまにはテレビ見よう…
たった一つのニュースでいろいろ考えちゃったのですが、
やっぱりイヤでもたまには世間の嫌なニュースは見た方が良さそうだ、
というのがもう一つの結論です。
それでは近いうちにまた。